
町おこしに携わり続け、数十年。色んな場面に出会した。空き物件が殆ど表に出ていない地方。いや、都心部もか。
循環や再生をキャッチコピーにし古い家屋から出たものを売りに出し活動費に充てている団体はある、だがそれらは溢れており自分が試みたい還元先は消費者ではなく地域そのもの。古い家屋の資材や家具の全てを拠点に運び込み移住希望でリノベーションをする方に無償提供。ここは完全無償では成り立たない為、保全サポーターであることが前提。トラブルを防ぐ細かい取り決めは必要となるが空き物件も人の手が入ることで寿命が延び移住者の費用負担が抑えられる。
移住者の住居改修の際の補助金については行政が提示してはいるが実情を言えばそれでは若めの層の移住までには至らない。明らかに負担の方が大きい。近頃はゼロリスクの若者と酷い書かれ方をしているが現社会では一度の失敗さえも命取りな空気感が漂っている。失敗し学習し経験となるわけだが失敗さえもできない環境では学びようがない。失敗しない為には何もしない。だが無関心だと責め立てられる。そして人生の拠点を決めるかどうかは移住後の生活の感触であり移住という行動そのものではない。その移住の壁が高すぎるのだろう。すぐに暮らせる新しい家屋は年配層、リノベーションが必要な家屋は若年層、後者が回り循環すれば移住者の比率も均衡が取れると考えている。現状では移住者の八割から九割程度が年配層とのこと。
自分のところはシェルターも同時に作っているけれど、最終目標はリュック一つで来られる場所。これは個人的に数十年ずっと考え続けてようやく動き始めたばかりで失敗してもいい為の土台を作りたい。通過点でもいい、ただ出ていく理由がマイナスの事情であってはいけないと考えているし、居心地がいいと思う限りは暮らして欲しいと願いながらリノベーションしている。いつか出て行ったとしても「ただいま」と帰って来られる場所、そういう形を作りたい。
自分の貯金を崩したのなら理解できるけれども親族から数百万から数千万を借りてそのまま返さないという同世代も多い。しかしこれが他人や銀行が相手だったらどうだろう。数年も保たずに破綻している。それはそれでそういう生き方でいいと思うけれども自分は距離を取るようにしている。根底にその感覚があるので共に何かをすれば自分中心なので必ず後味のよろしくない何かが起きる。それでもクラウドファンディングで何かをする費用を募ったりするものだからもう感覚が違いすぎて何も言わずに黙るようにしている。
地方は十年も経たぬ内に回らなくなるのではないかと考えるが、答が出る訳もなくただやれることをやろうと思う。やったこともやらなかったことも、いつかは返ってくる。