自分のみたひとたちはひとに話をしない



コロナ禍もあったが自分たちと入れ替わりで地域を出ていった人がいて最後の最後で本心を打ち明けてくれた。孤独と孤立。相手の伝えんとしていることが分かってしまい、しかし「出てゆく」という人を止めることはできない。やりきれなさから「通過点で構わないけれどマイナスの要因で出ていくということは避けたい」と地域のある人に伝えた日のことを思い出していた。
その「出ていったことがショックだった」ということをある人に話したら「一人で勝手にそうなったんじゃない」と返ってきて、何かを返すべきかと考えているのも束の間「一人でいると一人になるは違うし一人になってしまったも違いますよ」と日常で全く主張しない隣にいた人がそう言葉に出して思わず自分も振り返って頷いた。一人でいたいとか一人が心地いいとは全くの別物だがこれも伝わらない人には伝わらない。
当事者たちが「あなたは非当事者を信用しているのですね」と何度か自分に言ってきたけれど、そうこの辺りに当事者たちのしづけさが横たわっている。当事者は一種類だけではなく人の数だけあるかもしれないし自分にとっては非当事者であってもその相手も何かの当事者かもしれない、と思って生きてはいるけれど、当事者同士というだけで分かり合えるということもまた一握りで相性や価値観と人によりけりで色々とあるのも事実。そもそも分かり合えるということ自体が思い上がりで、個人的には共通言語があるのならば話してみましょうかという感覚。

偽善者だとか、全員が助けられるわけないとか「えらい規模の想像力だな」と苦笑いしてしまうような言葉も向けられるけれど、そのようなことは考えていない。だから心的な小舟で釣りをしているわけで、一人に気づけりゃいいわけで。荷物が重いかとか持とうかとか訊いてくる人は自分の背中を預けなくていい、持ってくれる奴はそっと持ってくれる。いつかの自分がそうしてもらって乗り越えられたように。

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