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自分のみたひとたちはひとに話をしない

自分のみたひとたちはひとに話をしない

積まれるほど読んでいない書籍はないが去年に久しぶりに購入した一冊。雑誌も書籍も全く買わなくなっていたが、ふと目についたのだった。

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生まれ育った土地は好きだが全てが好きというわけでもなく、ただ何かを助けることについての連携が音速並に早いのは骨の髄まで染みついていてその点は良かったと思う。良い結果ばかりだったというわけでもない。その流れからイングランドの共助の記事を読み漁った延長から社会的処方箋という言葉に反応してしまった。あれからというもの、あらゆる当事者性を抱える人に囲まれて生きてきてリンクワーカーのようなことを人知れず続けている。

個人的な感想だが一言で良本だった。

弱者にやさしい社会なんてあちらこちらから耳心地のよい言葉は聞こえてくるけれど、個人的な視点で社会つまり行政はシステマチックで「やさしさ」を感じたことは一切ない。配慮のある人はいた、けれどもやさしさは具体性だと捉えると行政には受け皿が何一つない。ないからないなりに生きてきたし自分を取り巻く小さな世界がただやさしかっただけだと思っていて、あれらは「ただの偶然」で誰しもがそこに着地するわけではない、そう思って生きてきたし今もそう思って生きている。と書きながら、運とか縁とか二文字でまとめるのっぺりとした高齢者になりかけているなと気づいたりもしたり。
個人的に、心的には小さな舟でのんびり釣りをしながら水面全体に目を凝らしているけれども息を止めて沈み続けている人は逆方向にエネルギーがあるし理不尽や不条理に怒り続けている人もそうで同じくエネルギーがある。ばしゃばしゃと体と声を上げている人も僅かながらか可能性があるかも知れない。自分がいつも見つめているのは音も立てず声も出さず水面に出ている指先、そう、社会に受け皿のない弱者は誰にも気づかれないままとぷんと沈んでしまうのである。本当の弱者は声すら出ない。

コロナ禍もあったが自分たちと入れ替わりで地域を出ていった人がいて最後の最後で本心を打ち明けてくれた。孤独と孤立。相手の伝えんとしていることが分かってしまい、しかし「出てゆく」という人を止めることはできない。やりきれなさから「通過点で構わないけれどマイナスの要因で出ていくということは避けたい」と地域のある人に伝えた日のことを思い出していた。
その「出ていったことがショックだった」ということをある人に話したら「一人で勝手にそうなったんじゃない」と返ってきて、何かを返すべきかと考えているのも束の間「一人でいると一人になるは違うし一人になってしまったも違いますよ」と日常で全く主張しない隣にいた人がそう言葉に出して思わず自分も振り返って頷いた。一人でいたいとか一人が心地いいとは全くの別物だがこれも伝わらない人には伝わらない。
当事者たちが「あなたは非当事者を信用しているのですね」と何度か自分に言ってきたけれど、そうこの辺りに当事者たちのしづけさが横たわっている。当事者は一種類だけではなく人の数だけあるかもしれないし自分にとっては非当事者であってもその相手も何かの当事者かもしれない、と思って生きてはいるけれど、当事者同士というだけで分かり合えるということもまた一握りで相性や価値観と人によりけりで色々とあるのも事実。そもそも分かり合えるということ自体が思い上がりで、個人的には共通言語があるのならば話してみましょうかという感覚。

偽善者だとか、全員が助けられるわけないとか「えらい規模の想像力だな」と苦笑いしてしまうような言葉も向けられるけれど、そのようなことは考えていない。だから心的な小舟で釣りをしているわけで、一人に気づけりゃいいわけで。荷物が重いかとか持とうかとか訊いてくる人は自分の背中を預けなくていい、持ってくれる奴はそっと持ってくれる。いつかの自分がそうしてもらって乗り越えられたように。

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